世田谷の病院で長男・健太郎を出産した後、私達は東横線の日吉に引っ越しました。2LDKのマンションで、ここからが私達の出発点でもありました。
60代のガラス屋さんが窓の修理に来て、見よう見まねでステンドグラスを作っているのだが、正式に教えてほしい、教室を開くに当たって知人に声をかけてみるとのことでした。1960年〜70年代はまだステンドグラスも日本では知る人も少なく、カルチャーの先駆けと言っても良い時代でした。生徒さんも5人から出発して次第に多くなっていったのですが、日吉の駅近に移るとその場所を高い値段で貸してほしいという人が出て来て、短い期間で出ることを余儀なくされてしまいました。
それからは本格的に店探しになりました。ステンドグラス・オカベという屋号で横浜市の港北区に店を出しました。左官屋さんの倉庫だったところを両親に借金して改装し、皆さんに協力してもらい出店しました。そこは街道沿いでもあり、生徒さんも集まり、パネルの注文も少しずつ増えて行きました。